「佐野って苗字いいよね」
「…そうか?」
「呼びやすい、犬みたい」
「殴ってほしいぐらいマゾだっけお前?」
「えええ犬可愛い可愛い、許してー」
最後に交わした会話も、じゃあねと手を振って家の中に入っていく彼女の姿も思い浮かべられる。…最後なんかじゃない、これからもまだ続いていくはずだった。

坂谷の電話を聞いて駆けつけた、途中どうやって来たかはっきりしない。ただ必死だったことがじんわりと脳内ににじんでいるくらい。
病室の前では坂谷が立って待っていた。俺の姿を確認すると、もう得意の苦笑いすら浮かべないで病室を指さし、無言の手招きをする。
これで全てがリアルになった。まだどこかで否定の言葉を待っていた自分を、自嘲の目ですら見られない。

「記憶喪失の中にさ、全生活史健忘っていうタイプの症状があるらしいんだ」
病室に入ろうとする一歩を止め、ぼそぼそと俺に言う坂谷の顔色は悪い。白い背景が所以なのか、それとも自分の目がおかしいのか、そんな可能性まで思いついてしまう。これも逃避か。
「自分のことを中心に忘れちゃうらしくて、社会的なエピソードとかは覚えてることがあるんだって。かけ算とかさ、自販機の使い方とか、プロ野球にはセ・リーグとパ・リーグがあるとか。」
頷くことも難しい気がした。ぐらぐらとする。何がだ、判別出来るか。
「そーいうのって、心因性のものが多いらしくて…そのうちゆっくり回復してくとか、催眠療法とかやったり、するらしいんだ。…ただ、浅丘のは、そうじゃなく、て」
「…事故だな」
「…そう、ごく稀に外傷でも起きることがあるらしいけど、それ。手術は終わってるから、心因性のと、治療方法は基本的に同じだって、ただ、さ」
「ただ…?」
「記憶を取り戻すのは、大事だ、だけど事故の時のことを思い出したら、それは、それで、」
ごくりと生唾を飲み込む自分が分かった。冷や汗をかいている、もう10月も終わろうとしているのに、随分冷える日も出てきたのに。
暑いわけじゃない、分かっている。そして続きも分かる気がした、言葉を濁す坂谷に首を振る。互いにその意味が理解出来るから、苦しい。

「…葬式」
「お通夜は明日だって。一時退院にして、浅丘も、出るみたいだ。」
入ろう。また無言で坂谷が促した。僅かに頷いて息を吸う。いつもとは違う心臓の動きが怖くなったけれど怖じ気づくわけにもいかない、扉をノックし、返事を待った。
「入っていい?」
「あ、はいどうぞー」
明るい声のトーン。緊張が惜しみなく生産される。坂谷が扉をスライドさせる。

「あ、坂谷くん!」
その瞬間、拍子が抜けたのが自分でも分かった。訳が分からず意図的に瞬きをする。
坂谷に続いて病室に足を踏みいれる。一人部屋、壁も何も全て白い。白い部屋は病人に無気力感を与え病状の回復に相応しくないというから、今の病院の入院棟というのはみんな皆薄いオレンジだの何だのにぬられているのだと思いこんでいた。故、その白さに若干戸惑う、さっきまでそんな余裕はなかった。ふと拍子が抜けた際にそんな余裕が出来た。全部嘘だったのではないか、それかもう回復してしまったとか、そういうことなのではないか。
「おー佐野―!」
「あ、佐野くんだ!」
ほら安堵と希望の光がふと射した、
「…だよね?私何も覚えて無くて、さっき写真みたばっかだから、違ったらごめん!」

遮られた。
都合良く考えるなよ、ピンチだけ助けてくれる神様なんていないんだ。
「…あってるよ」
「おあー、よかった!佐野くんがキーパーなんだよね!」
「おお」
「すげー、浅丘もう殆ど覚えたなー」
「うん、えと、岡田くんがフォワードの凄い選手で、坂谷くんがミッドフィルダーでサッカー部の母、主将は砂倉先輩で、顧問の先生は笹瀬先生」
「ちょ、母とか吹き込んだのお前!?」
「これ浅丘がつけたんだぜー、皆に大ウケだった!」
近くの椅子に腰掛ける。周囲の壁と変わらない白いベッドの上に、中学の頃の青いジャージを着て座っている彼女は、一見いつもと変わらなく見えた。同級生と会うのだから、と彼女の親戚か誰かが届けてくれたのだろう、その相貌だけでは、あの頃学校で会っていたそのままに見える。笑顔も声のトーンもテンションも、いつもと何ら変わらないように感じ取れるのに、それでも決定的な所が違うのだろう。事実、彼女は俺の名前を確かめたのだ。先に彼女と会った岡田が、写真でも見せ、忘れてしまったことを一つずつ吹き込んでいるに違いない。岡田のそういう所はいい部分だと思うし、いつまでも記憶が戻らない状態で生活していく訳にもいかないだろう。さっきの坂谷の話では、日常生活そのものに支障はないだろうが、もし学校に通うなどということになれば、周囲の人間のことや自分のことをまるきり忘れてしまったままでは難しい。
テレビや映画で見るような、ふさぎ込んで、何故か敬語口調になってしまうような浅丘を、無意識のうちで想像して落ち込んでいたが、そうではなかった。明るく屈託のない笑みを浮かべる、事故に遭う前と何ら変わりなく見えてしまう浅丘晴季。なのに、全てを忘れてしまっている浅丘晴季。

「…俺、ちょっとトイレ行って来る」
「おー!」
以前部室に出たゴキブリの話を熱弁していた岡田が振り返り頷く。どうしても一度自分をきっちり整理したかった。
立ち上がり出口に向かう途中、ふと名前を呼ばれていた。
「佐野くん!」
響きが違うのだ、戸惑いに聞こえる。
いつも通り、今まで通りなんかじゃない。あれはきっと、彼女なりの努力の笑顔。分かっていても、振り向くのが怖い。
その声は、拘泥せずにそのまま続けた。

「私、ちゃんと思い出すから!全部ちゃんと思い出すから、その時、またちゃんと彼女にしてね!」
扉に手をかける。
「おう」
時間を開けずに頷いて、やっぱり振り向けないまま部屋を出た。ゆっくりと扉を閉め、廊下を歩く。階段はどちらだろうか、こういう時はやっぱり屋上に行ってみるべきなのだろう。今日は寒いから、頭を冷やすのに申し分ないかも知れない。患者もそういないだろうし。
テレビドラマでよくみるような病院の屋上を思い浮かべながら階段を一歩一歩確かめるように登った。階段も、やっぱり白い。


きみはぼくをしらないけれどぼくはきみをよくしっているというじじつがただただむねをしめつける。