今に安心しきった魚が、普段は殆ど近づかない図書室は、どうしてか変にノスタルジック。通いつめた記憶があったろうかと辿り、余裕のない現状なのに苦笑。司書のお兄さんにときめきを覚えて市立図書館に通った日々は小学校の五年生の頃か。一ヶ月としないうちにクラスの男の子が気になり始めて、そんなものは終わってしまったのだけれど。ありふれているのに非現実的な恋愛も、小学生にとっては恍惚の的だった。
感傷に浸っていられるのはやっぱり右脳、左脳の無意識は未だ逃避。光のにおいと本のにおい、染みの付いた木製の棚のにおい、本に吸い込まれた無数の音。それらの間をぬって図書室を駆け抜ける。狙っていたのは反対側の扉からの脱出、しかし目の前に先回りの人物発見。
「……っきゃー!」
「っておい待て逃げるな!」
ぐるんと勢いよく方向転換、サッカー部員とマネージャーのか弱い女子、長期戦になれば不利なのは見え見えだが抗う、抗う。地の利はいつもあちらこちらかけずり回っているこちらに味方している。選ばれた新たなる逃走路は開け放された窓、格子に手を掛けて跳躍。図書室が一階で良かったと噛みしめる。しかしおちおちこのままでいられない。ヤツは、逃亡者の私を追跡する相手は、もう私の逃走路を発見し、変わらず追いかけることをやめない。すらりと細く長くなりたい、そう切望しお前には無理だと部員達に切って捨てられた足をはじめとし、私の体力は限界だ。だけど走る。悪いことをした覚えなんてないけれど、犯人と警察なんて間柄じゃないけれど、走る、逃げるように。
どうして追い続けてくるの、それはお前が逃げるからだろ、幾度くり返しただろう、叫びのような文句のような問答。
それでも止まらないのはもう意地なのだろうか。
隠れてしまってもいいし、女子トイレに逃げ込んでしまってもいい。だけどとにかく、自分の足で走り続けたかった、格好いいものじゃなく、逃走という形でいい、とにかく私が逃げたがっているのだ、問題から。幸せからも不幸せからも逃げたい。

「いい加減止まれこの馬鹿!」
「無理です!そっちが止まってください!」
「それこそ無理だ、話しきけ!」
「ききませんききませんー!!ごめんなさいー!」
「っはあ!?」
「あ、違くて!別にそういう意味じゃない、よ!!」

この学校、今は何の時間だっけ。まともに考える余裕も殆どない、グラウンドの横を延々と走ろうとしている自分を確認するので精一杯だ。

「いっみわかんねー!!」
止まって話せばいいのに。誰かが言う。それが出来たら苦労はしない。面と向き合える自信がない。
あんなに、あんなにストレートに染みいってくれた自身の感情なのに、その対象本人の存在というものはもの凄く面倒だ。

「だから!私は佐野くんを好きだけれどっ!て!」
その瞬間頭に何か衝撃。正体判明、振り返ればサッカーボール。私にぶつけた相手も必然的に視界へ、この妙な追いかけっこに、流石に疲れてきている佐野くん。
「いったー!!」
頭を押さえ、走る方向へ向き直り、急停止。
目の前に立ちはだかるはあまりに巨大な、鈍色のコンクリートの、壁。
「…………あれまあ」
一度止まってしまったら、もう一度走り出す余力はない。勢いだけでいた気分だ、ガソリンがなくなったのに根性で走り続ける車みたい。そんなものがあるかどうかは不明だとしても。
万事は休した。

「……っ、お前、ふっざけんなー!」
「ぎゃひー、何で!」
「疲れるんだよ!!俺が止まれっつったら止まれ!!話しきけっつったらきけ!!何様のつもりだ手こずらせやがって!!」
「えええ何その悪役台詞!!最悪だよ越後屋とお代官さまの次に最悪だよ!何で私が!」
「…俺が先に言い出したからだよ!!早いもん勝ちなんだっつーの!!」

ここまで叫んで体力の大方を使い果たした私は、一端大きく息を吐いた。肩で呼吸。佐野くんは私より少し軽いその状態。もう叫び合いはない気がした。
これまでの反動か、ふいに静かになる。遠くの賑やかな声は聞こえるから、まだ昼休みなのだなとぼんやり思う。周囲に人影はない。流れるはただ沈黙と風。

「…何を先に言い出したか」
破ったのは佐野くん、私にはそんな勇気がなかったし、何を言ったらいいかも分からなかった。

「分かるだろ」
「…えと」
「…分かんねーならお前本物の馬鹿、間抜け、コロ助以下」
「それこそ意味分かんない」
呼吸が少しずつ落ち着いてくる。だけど頬の熱が引いてくれない。心臓の音が巨大な発条時計のよう。

「…分かったよ」
「ええ自己完結?ノリツッコミ?」
「ばっかちげーよ、ちゃんと言うよ」
顔の内側から再び熱湯を浴びせられた、病状再発、処方箋も病原菌も同一の病の再来。

「俺、」
「た、タンマ!!」
「…なんだお前」
百パーセント私の所為だが、今の佐野くんの顔は最凶に怖い。当然かもしれないけれどもやっぱり怖い、本当に怖い。佐野くんの顔だけじゃなく、今の空気と自分の身体の病状も全てひっくるめて、怖いという形容。嬉しいとかそういうリアルな感情が何一つ浮かんで来ない。けれとこのままじゃ、私は病原菌作用の方が大きくて死ぬ。だからって和らげることを期待して目を背けちゃいけない気がするのだ、せめて準備態勢ぐらいいいでしょう神様。
「…ちょっと待ってね、ちょっと」
「…ちょっとな」
「よっし、もういいよ、かもん!」
「ほんとにちょっとだな…」
呆れたようにため息を、今度は吐かなかった。

「俺はお前が好きだ」

どうか心臓よ、もう少し静かに動いてくれないだろうか。無理を承知で、私は自分に頼む。
やんわり断る、神様にも曲げられない、感情ひとつ。


畜生、やっとだ、やっとだ、先手必勝なんざ知らねー…誰と勝負してんだか。