廊下を走ることを、いつの間にか注意されなくなった。それに気づいたのは中3の秋。
私は廊下疾走が大好きだったので、その瞬間に世界からの解放を感じた。溢れる高揚感を止められなくて終始軽く笑顔、遅刻間際すら。別名走るせえるすまん。一番大事な形容詞の欠落したにやけ顔。
グラウンドを走るよりずっと速くなったように感じられる自分の足、上靴のきゅきゅとした擬音、人工的な風が頬に当たる感触。高らかに叫び出したい時間、欲求だけで止まるけれど限りなく実現。
今まさにその状態、しかし今までと決定的に違っているのは心臓の不規則且つ高速なリズムと笑みのなさ、その理由に、叫びだしたい理由。
ぶつかった曲がり角で失速、そして探していた背中を見つけた。
「お、岡田くん!」
理科準備室から出てきた彼が私の声に振り向くタイミングと、私の目から最初の涙が零れ落ちる瞬間はほぼ同時。
「うお!?浅丘どした!?何で泣いてんのー?!」
宿題忘れ祝一週間のお咎めに行っていた彼をみた瞬間に開いた愁眉だと言えば柔らかい響き、しかしそれが違うことは重々承知。
正しくは驚嘆やら焦燥。様々な感情が体中を締め付け弾けどうにかなってしまいそうだったので走り出した。それを上手くも下手にも均してくれる人へ向かって。
「浅丘ー?」
息を切らし俯いてしまった私の顔を覗き込む岡田くんの声は、明るさに心配が滲んでいる。天真爛漫なんのその、こういう時に人間の心情を読みとる能力があるのだから馬鹿に出来ない。
思わず彼の制服の袖をつかみ、目をみた。私プラス11センチ、身長差はさほどではない。坂谷くんや佐野くんとのそれに比べれば、
「…佐野くんが」
「ん?何まだ口きいて貰えねーの?」
私の両手をとって、子供をあやすような姿勢。事実私は半泣きだから大差ない、恥じている余裕がないだけだ。名前を口にすると現実が濃くなる。
否定で首を振る私に、じゃあどうした?とあやしは続行。

「まだ大した会話をしては、ない、だけで」
「あれ?」
「パン、拾ってくれた、あと」
「あと?」

落ち着いていいからなーと優しさひとつ。何となく落ち着くは片方側の私。もう片側は、まだ受け入れるのをどこかで拒む姿勢な私。岡田くんにも崩されない。
「…岡田くん」
「ん?」
「佐野くんて私のこと好きなの?」
口にした瞬間のきょとんとした岡田くんの表情、そしてぽかんとした時間のあと、今までと大差ない空気を模して反応。

「そうだよ」
途端に、私のどこかに早鐘と熱湯。全身か。私が最近感じていた病気の症状再発症。ここで誤魔化せば浅丘晴季無駄思考、これはもう、答えが出たも同然、外科内科無駄だ、処方箋なんて貰えない。今更気付くとは何という乙女の失態。
「浅丘」
また俯いてしまったら、頭上から降る岡田くんの声。いつも明るく騒いでいる彼のものだが、酷く優しい響きを伴う。
「浅丘、何かあった?」
「…佐野くん、が」
「うん」
「私を、好き、で」
「うん、そう。あいつが言ったの?」
「ん、言ったには言った、口にした、でも面と向かって、じゃな、い」
「そっかー」
うんうん、と幾度も、自分に確認するように頷く岡田くんが分かるけれど、旧型のワープロよりもキャパの少ない私の頭は既に他界。何て頭の悪いことをと思われればそれで結構、それで片付くならなおよろしく状態。何の予防線を張るつもりもない、これは確信だ確証だ、恐ろしく唐突にやってきた、

「岡田くん」
「ん?」
私は別に恋愛事に鈍い人間じゃない。少女漫画代表、好きな男の子の赤面を見て、「悪い風邪が流行ってるのかなぁ〜気を付けなくっちゃ!」みたいな天然キャラでもないし、「付き合ってください!」と言われて「え、どこに?」なんて交わすようなボケ担当でもない。わざわざそんな性格をつくり装おうとも思わないし、そもそも私のデフォルト設定がそういうものでないのだから致し方ない。
今までだって好きな子の一人や二人いたし、中坊の陳腐な遊びだと馬鹿にされるかもしれないけれど付き合っていたことだってある。それこそ過不足無く、適度。バレンタインに告白してみたり、放課後遠回りして帰ってみたり、そのくらい。
未だに引きずっているような綺麗で深い恋愛も知らない。その時はその恋愛に必死だけれど、過ぎてみれば苦笑できるような恋愛だった。大人たちに子どもの恋愛ごっこと馬鹿にされ、憤ってオトナハワカッテナイと呪文のようにくり返す。酷く肩肘をはって、はやくはやくと背伸びをする。だけど過ぎた時間を思えば、今こそまだほんの少しの時間しか流れていないのに、子どもじみた自分たちだったと思い出になる。それが青春だだのと常套句で流してしまえるにはまだまだ時間が足りなくて、甘い苦しみを噛みしめる仲間がいないこともない。しかしまあ私の場合はその輪に無関係、死別なんてものは物語の中の話し、どろどろした利用の仕合いも、幸いなことに未経験。
「私、佐野くんが好きだなー」
この時間を省みて、陳腐だったと苦笑する自分はまた現れる。今それを思うと怖いし嫌だし否定したくなるけれど、私たちには今しかないのだ、未来で後悔しないために何ていう言葉を使うのは小難しすぎて溺れてしまう。もがくだけもがく今がいい。

「おう、それも知ってる」
にししと笑って私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる岡田くんの笑顔に心底安心して笑ってしまったけれど、さあここからが大変だ。
私は現在逃亡者


理解者は天真爛漫