冗談じゃない。
彼女の背中が教室から消え、反対側の渡り廊下に、その購買部に向かう姿を確認する。途端長いため息をついて机に突っ伏した。
時間が過ぎるのがとてつもなく遅い、全てが随分と長く感じた。朝のホームルームでの宣言以来、それになぞって浅丘と一言も口を聞いていないのが理由だとすると、自分はとても恥ずかしいと思う。格好が悪い。

「佐野おつかれー」
「本当だ、本気で疲れた。」

常人の三倍ほどの大きさの弁当箱を持った、坂谷の笑顔、その中に含まれる苦笑割合は10パーセント。
中学の頃からの同級生である彼は、現在の自分の心境を多少は理解している有難い存在の一人であるが故、ため息をもう一度吐ける。

「何でそんなつっぱねちゃうのさ、浅丘のさっきの顔みた?」
「見えないけど分かる気もする、怒ってるんだろあれは」
ため息なら在庫切れを知らないのではないかというぐらい、その感情が体内に閉じこめられているのが分かる。内側に留まったままのそいつは、様々な色を持って腹部周辺から全身に広がってはけ口を探す。それが見つからないので、我が感情は元の場所に戻り、結局は息に代わるのだ。
「いや、もう後半は悲しそうでみてらんなかったよ」
「見てたんだろ」
まあそうなんだけど、苦笑の多い坂谷を前に内心の驚くべき反応。悲しそう、その言葉が脳内反芻をやめようとしない。彼女の悲しそうな顔を思い浮かべるのは正直に言おう、嫌なことだ、だけどその所以を考えるとどこかで喜ぶような、そんな自分がいることにまた抱かされるは別感情。
具体的な言葉にするのは気恥ずかしいこと極まりないので敢えてしないのだが、自分はその感情の属するところを知っていた。だから、今朝の彼女の相談に対して、嬉しさと怒りと、少しの落ち込みと多々介在してしまったわけで。

「お前も不憫だよね、かなり前からじゃなかった?」
「…何で」
「見ててそう思うもん」
「うっそ」
「案外皆気付いてないようなそうじゃないような、あの反応からすると浅丘はまったくだよね」
その言葉に安心していいのか落ち込むべきなのかまたため息製造開始、もう要らないのに。
弁当箱を開けて食事の開始、自分の倍のペースで進んでいく坂谷の食事速度とその量にはもう慣れた。坂谷の弁当然り、何かと中学時代と比べては驚き戸惑っていた高校生活ももう秋、慣れてしまったものは本当に多い、住めば都とはこのことだ。その慣れは自分にとって好影響が大きくあったが、仲には存在する良くないこと、例えばため息の大半の原因浅丘であったり。
彼女とは中学の頃からの同級生だが、同じ学校を受験すると知るまでろくに話したこともなかった。受験シーズン、志望校ごとに開催されていた補強講座のクラスで一緒になった時がファーストコンタクトか、そう軽く回想にふけってしまい、ふと気付けば正面に坂谷の視線。慌て、悪いと向き直れば口の端だけを上げて企みも交えたような微かな笑み。その口が開く。
「浅丘はさー、つまり佐野のことが好きなわけじゃない」
「……そうか?」
そこに大きな疑問を抱いてしまうのである。自惚れであるは百も承知、しかし常識の一線を辿れば、彼女の言う"自分に対してだけの変化"というものが、俗に言う恋愛感情であるというのが一番しっくりする解答なのだ。鈍いなどというステレオタイプを通り越した彼女のあの反応には正直困惑十割、真剣に病院で相談したとしたら、今時の高校生はと病院での笑い話になること間違いない。医者によっては、面と向かって言うのではないだろうか、貴方馬鹿ですか、と。診察代どころか病院にいく交通費と時間さえ惜しいと常人なら思うレベル。しかしながらに浅丘晴季、彼女は常人のラインを、色々な意味で超越または劣りも劣りの極みまで落ちて過ごしているのだろう。
つまり、だ。彼女がただ単なる無自覚なだけならそれこそ自分にとっても喜ばしいこと限りないのだが、果たしてそうなのかどうかと。だからといって別の理由などすぐには思い浮かばないし、元々酷い持病を持っていて、自分との相性が悪く病気が再発しつつある、何てファンタジックで稚拙なことを思い浮かべているわけでもなく。要は彼女に対して自信が持てないという、ただそれだけのことなのだけれど。
自身の中の葛藤はその瞬間から始まり、訳の分からない状態の彼女は混乱の増幅作用を大量に携えているので一時遮断、授業など無論意識の外も外のいい所。
そんな様子を多少くみ取ったのか、坂谷は今一度口を開く。

「そうでしょ、まさか佐野も理解してなかった?」
「…いや、何ていうか、」
「認めちゃったっていいじゃない、惚気も時には必要だと思うよ」
「…んなこと言ったってあいつのことだぞ、俺の顔がナポリタンに見えるから胸がどきどきするとか普通に言いそうじゃねーか」
「んな無茶な」
そう言いながら困惑に近い表情、思い当たる節でもあるのか、はたまたその状態に陥っている浅丘を想像でもしたか。どちらにしろ完全なる反対意見は出ないだろう様子だ。
「ナポリタンには見えないよ、佐野、日本人顔だし」
「ナポリタンを作りだしたのは日本人だぞ」
「まあそのへんは別としてさ、案外長く続いてたのかもよあの子なりに」
「あのなぁ…」
話しながらだというのに汚らしくも何ともなく、気付いたら坂谷の弁当は半分なくなっている。自分のを覗き込めば、まだ全体の三分の一にも達していない摂取量、悩みが吐き出されるばかりで別物を取り入れることが出来ていない。一息おいて少しかきこみ、飲み込んでから坂谷に向き直る。
「俺は何でかんで中学の頃から浅丘が好きなんだよ、だからあいつがそういうー」
言いかけて、止めた。坂谷が何となく、また笑った気、というかしてやったりな表情をしたのが非情に気にくわなかったし、背後で聞こえたどさどさという大きな落下音が気になって振り向いたが故。途端に自分の中で何かがはじけ飛ぶ感覚、トマトを投げ合う祭りの様子が脳裏に浮かんだが激しくどうでもよかった、流し素麺のごとくいっきに流し去られる。

「えー、と、あはははは、」
購買で買ってきたのだろう大量のパンだのパック飲料だのの落下音、それらの元々あった場所は論点の中心だった彼女の腕中。
「落としてしまった」
会話が聞こえていなかったことを祈る、だが彼女と自分の背中との距離はあって1メートル。購買から帰ってきて、この数時間に渡る無視を終わらせようと歩み寄ってきた図が容易に想像出来てしまう。無駄な願いはない方がいい。
「佐野」
「あー…」
坂谷の促しに従うまでもなく、立ち上がって彼女に近寄りその大量の食べ物を拾う。あえて見ないようにしているからはっきりはしないが、彼女の顔に一瞬安堵がうつる。無視時間の終了と思わせられたが故か、しかしまだ言葉はない。その理由は実に簡単、安堵よりも強いものを知ってしまったからだ。
「ん」
拾ったパンを手渡した瞬間、彼女の肩が大げさなまでにびくりとした。凍り付く、そして心臓の音だけがやけにリアルに鼓膜に反響。
「え、あー、うん、どうも、ありがとう、佐野、くん」
目を合わせようとしないのだ、久方ぶり(とはいっても数時間なのだけれど)の会話であるからというわけでもないだろう、つまりそれのさすところ。
「…聞いてた?」
「えー、あー……うん、」
返事をし終わらないうちに急に立ち上がると、それに驚いた俺の頭の上に今拾った食べ物を全て降らせた。こちらに背を向けて走り出す。脱兎の如く、その速さは尋常でなく。
「あーあ」
「…坂谷」
「ん?」
もう一度それらを拾い集めながら名前を呼べば、もう包み隠さぬ返答をするは友人兼確信犯。
自分と彼は向かい合っていたのだ、彼には浅丘の姿がばっちり見えていたはず。
自分の発言への誘導然り、こいつは相当タチが悪い部類だと再認識。
「お前…」
「言っておくけどね、このままじゃ有耶無耶で気まずくなって進展なしで終わるんだろうなあと思ったからだから」
ぴしゃりとしたその言葉につまってしまう、反抗出来ない。その未来は随分と本物くさい。
「無論楽しいのもあるんだけど」
「……」
「それでもさ、佐野も浅丘もうまくいけば、オレは幸せだと思うよ、結構」
そうして薄笑いを浮かべる。嫌らしい類でも冷たい類でもないそれに安心はするが、応援しているのか、下手したら後退させたいのか微妙絶妙なラインを彷徨う発言には多少戸惑う、だがしかし、とりあえずプラスの方向に受け止めておこう。
「さかた…」
「とりあえず追いかけたらいいんじゃない」
弁当を全て食べ終え、蓋を閉じ、浅丘の残した焼きそばパンに手を付けながら言う彼に小さく礼を言った。踵を返し走る。背後で聞こえてくる、青春だーという和んだ声は彼のもの。まあ背中を支える言葉ではなかった。
それでも雑踏の中をゆく。


愉快犯おつかれ