寝坊した。大寝坊だ。いつも家を出る時間に目が覚めた。
私は今、前自分が住んでいた家に一人で住んでいる。週末はいつも叔母さんが泊まりに来てくれるけれど、仕事も忙しい人だしそんなに近くに住んでいるわけでもないから、なるべく無理しないで貰っている。もう通院は一人で出来るから、保護者の人も一緒にと言われる時以外は特に支障はないのだ。
叔母さんがいてくれると嬉しいし、勿論一人は楽しいわけではない。叔母さんもお医者さんも、以前いた場所に居た方が何か思い出すかもしれないと言う一方で、それは寂しくないか辛くないかと随分心配してくれたけれど、私は大丈夫だと言った。
事実、大丈夫なのだ。誰にも言っていないけれど、正直、家にいても寂しさなんて沸き上がってこない。
寂しさなんてものは所詮は愛しさとかそういうものの付属品で、私に漂っているのは虚しさだけだ。あんなに温かい顔で笑っている人たちを綺麗サッパリ忘れてしまっている私の存在に虚しさのため息をつくだけ。思い出がないのだから懐かしむことも出来ない。思い出はただの記憶じゃないとは思うけれど、全部なくなってしまったら境目なんてないのだ。
思い出さないことに何も何も何も、始まらない。
そう思っていて、同時に寂しいと思う。家にいるからじゃなくて、誰かといないから。この家は忘れてしまった私には温度なんて感じさせない思い出を貼り付けているけれど、忘れてしまった私すら温かいと思える人たちを知ってしまったからだ。分かっている。
「忘れてたって、いいよ」
ぽつんと口にしてみる。ぐるぐるする。暖房のごうんごうんと健気に頑張る音が耳の奥に忍び込もうとする。
「…みてる」
くり返す。頭の中に戻される景色がある。くっきりしてる。とても鮮明。あの場面を切り取ってパックしてしまったみたいな、色褪せないデジタルデータよりずっと強く、一から百まで綺麗に。
「からっぽじゃな、い」
リビングの棚の上にお約束のように置いてある写真立ての中で笑う私と、その両脇にいる私の両親。覚えていないし何も思い出さない懐かしいという空気を含んでいるのに私は吸い込むことが出来ない。
「…岡田くん」
ぎゅうと強く目を瞑る。暗闇が訪れない。光が浸透してくる、朝の光。景色と音声。リアルな再生。
思い出す、私は遅刻しかけだったのだ。鞄をひっつかんで家を飛び出した。
音にして声にして形にして、私の内側から外側に吐き出すと、自分でも驚くぐらいに心臓がぐらぐらして破裂しそうになる。全部かき回される気がする。もやもやを全部放り出してしまいたいぐらい全身が疼く。
さっき言った、あの名前は殆ど無意識だ。岡田くんの名前。回想なんてものじゃない再生、それが引き起こす衝動。
岡田くんが分からない。私には分からない。何よりも分からない。心臓の仕組みよりよっぽど謎だ。全部なくした状態の私の何を好きになってくれるんだろう。どうして私に優しくするんだろう。お医者さんが言わなくても叔母さんが秘密にしてても私のことなんだから私が一番分かるに決まっているんだ、もう戻ってこないかもしれない記憶のことなんて。
「わ、危な」
滑り込んだ電車から急ぎ足で降り、走って改札を通る。学校までは徒歩十八分。走れば八分。間に合うかもしれない。可能性にかける。走る。走る。風が頬に当たって冷たい。
走る。
赤信号に差し掛かって、上がった息を肩で整える。息が白い。季節の変わり目の色だ。今日初めて気づいた。
ああ、こうやって。こうやって新しいことが降り積もっていく。転入生みたいに、少しずつこの世界に慣れていく。定着していく。まるで最初からそうだったみたいに。なじんでいく。うっすらと塗装を重ねていくみたいに慣れていく。浅丘晴季。
私、何に、慣れていっているの。
「浅丘!!」
ぼんやりとしたリアルな世界を叫びが引き裂いた。信号はもう青い。ブレーキの音はしない。ただ無音の刹那、大きな鉄の塊が目の前に見える。小さな悲鳴。走り出していた私の耳に飛び込んできた叫び声の主は誰。考えられない。猫。白い、真綿みたいな小さな猫。それしか目に入っていなかった。私あんなに怖い、あの、私に向かっているトラック。足がすくんでしまった。信号の色は青だし、抱き上げようとした瞬間まで全然平気だったのに、にいと小さな声を上げて猫は車の方へ向かうから、手を伸ばそうとして追いかけて、ほら、あれ、信号青いはずなのにやって来る。駄目だよこんな所で立ちすくんでる場合じゃないよこのままじゃあの真綿、猫、トラックにぶつかってしまうよ。私も一緒に。
視界は一瞬青が覆う。ジャージの色だってすぐに分かった。遠くに黒と白のサッカーボールが見える。あれを追いかけてきたのかもしれない。
遠くで誰かが叫んだ声がも一度する。今度はブレーキの音のようなものの後だ。がっしゃんと大きな大きな音があたりに響いた。ガードレールにトラックの頭。白い猫、赤い色、あれはそうか、血だ。
私のじゃない。体は少し痛むけれど、これは違う。目を開けたらそこに人がいて、ほら、私に覆い被さるみたいに、これは助けて貰えたの。
頬にある温かいものは液体、触れたら赤いね、これは誰のもの。
父さん、母さん、どこ、ねえ。

どこかから見ているのですか