坂谷くんは器用なんだね、と褒めてくれた浅丘の叔母さんは、微笑んでいるけれどどこかそれが遠くにあるような人だった。浅丘の身内で、今最も彼女に近い存在なのだろう、病室に顔を出している頻度は、一番高いと思う。
何でかんで言って、浅丘はまだ16歳の子どもで、未成年で、保護者の管轄にいなければならない。浅丘の両祖母は既に他界しているらしく、伯父さんは住んでいる場所が結構遠く、仕事も随分忙しい人なのだと聞いた。必然的に彼女が現在の浅丘の保護者の位置にいた。
葬式の後に浅丘が入院して四日目。岡田が大量の梨を病室へ持ってきた。遠方の実家から送ってきたと言って、彼の両手に抱えきれないぐらいの量を、大きな麻袋に詰めて担いできたのだ。そんなに持ってきても食べきれないだろうということは全く頭になかったらしく、
「坂谷ー、これ剥いてー」
「お前自分で剥けねえの」
「えーオレに刃物持たせるつもりー?」
「…坂谷頼む」
それにしてもこの量。浅丘はどれだけ梨が好物なのだとつっこんでやりたくなった気持ちを抑えて手を動かすはめになったのは、最終的に俺だった。白い病室に梨のふんと甘いにおいが充満する。やりきれなくなった佐野が窓を開けて、そこから秋の風がささやかに吹き込んで甘いにおいを散らす。過不足なく丁度良く熟れていた梨は剥きやすかった。食べ頃と言えば食べ頃なのだけれど、さっさと食べてしまわないとこれはすぐ駄目になるぞ、そう思うと、岡田が担いできた梨の山が、迫力で二周りほどふくれあがって見えた。
浅丘は治療ということで別室に行っている。今日に限って、彼女が病室を開ける時間を把握していなかった俺達は、待ちぼうけを食らうはめになってしまっていた。部屋の主をなくした部屋は未だ白い。彼女は病室に殆ど私物を持ち込んでいないので、長期入院の患者などの病室に見られる、その患者の生活模様というものがさっぱり見えない。梨によって見えない着色を施された風が靡かせる、埋め合わせのような小さなカレンダーが、逆に殺風景さを強調しているかのよう。
「なー浅丘まだー?」
「まだ小一時間はかかると思うよ、仕方ないだろ」
「えー、つまんねー。佐野ー何か面白いことやって、ヘッドスピンとか、ムーディーの真似とか、小島よしおの真似とか、aiko歌うとか」
「な・ん・で・だ!」
「あー、テトラポットのぼーってー、っていだだ!うぇ、いだだだだだ、頭死ぬ!!痛い!!」
「自業自得だ、ていうかてめーが歌ってんじゃねえかよ!」
「ちょ、刃物持ってる人間の近くで暴れるなよ!!」
ぎゃあぎゃあ騒がしくしていたので、病室の扉が静かにスライドしたのに気づかなかった。それは開扉音。そして静かに閉じて、リノリウムの床に吸い込まれていった足音も。
「…ん?」
最初に気づいたのは俺で、その後に佐野、岡田。剥いてまだ切ってもいない梨を、そっと俺の手からとって、そのまま丸ごと囓りついた彼女は、何度も顔を合わせていた浅丘晴季の実叔母。
「あ、どうも」
「こんちはー!」
「お邪魔してます」
「お久しぶりです、二日ぶりぐらいだね」
めいめいの挨拶に笑みを浮かべながら丁寧に返してくれた。短くて茶色く染まった髪と、ぴっちりとした隙のない化粧、年相応の、シンプルだけれどセンスがいいと思われる服装。仕事帰りに見える格好、それか、今からまた仕事で、ちょっとだけ抜けてきたのかもしれない。多忙な人なのだろうな、と出会った時の印象から感じ取っていた。けれどとても人間味溢れる笑顔で笑う人だ。状況が状況なだけに、心からの笑顔は見たことがなかったけれど、そんな所が浅丘に似ているなと思っていた。
パワー溢れる人。浅丘の父親の、妹だと聞いていた。
「晴季待ってるの?」
「そうでーす!」
「お前は少し声を絞れ」
「そっかー、いつも来てくれてるもんね、ありがとうね」
「あ、いや、全然、僕らが来たくて、来てるんだ、し」
彼女は梨をもう一度がりりと囓って口に含んだ。細い喉、外から見ても分かるぐらい。梨を飲み込んだあとに一呼吸置いて、口を開いた。
「三人とも、今、時間ある?」
ちょっとでいいんだけど、その言葉に、頷かざるを得ないような気がした。実際、浅丘を待つあと一時間ほどは梨を向いてaikoを歌うぐらいしかすることはなかったので、三人とも打ち合わせたかのように同じタイミングで首肯する。それを見て、じゃあひとつ話がしたいんだと言いながら、近くに置いてあったパイプ椅子を引き寄せ、彼女は座った。
何だか改まってしまって、こちらも座りなおす。手は相変わらず梨を剥いているけれど。「晴季、今、催眠療法とかやってるのは、知ってる?」
再び首肯。サイミンリョーホーって何?と横からつついてくる岡田に、あなたは段々眠くなーるの医療版、と言ってやったら、もの凄くよく分かったようなすっきりした顔をされた。複雑。それをくすくすと嫌味のない笑みで見つめ、続けた。
「それでもあの子、どうしようもなくなってるのは、分かる、よね。」
痛々しい首肯をとってしまう。
「普通は次第に戻ってくるらしいけど、あの子にはそういう兆候が全くない。あ、これ何となく憶えてる、知ってるよ、って感じの、デジャヴって言うの?ああいうのも全然ないし」
デジャヴはちょっと違う。
「まあさ、つまり、思い出す兆候が全くと言っていいほど見られないってことなんだけどね。…こういうのは完全に個人差だと思うけど、あの子の場合は心因性じゃなくて、外傷性のものだから、あ、別に脳に傷が残ってるとかではないのよ、こう…外部からの衝撃で中身がぐらついちゃって、記憶っていうものが引っ込んでしまった感じ」
手に持っていた囓りかけの梨を、白くて細い綺麗な指で彼女は弾いた。こぅんと揺らぐ音がした。これを浅丘の脳と考えろということなのだろう、難しかったけれどすんなりと頭に滑り込んでくるのは何故なのだろうか。
「まあ、結局の所は外傷性というやつなのね、で、こういうのも傷の治療以外、大体心因性とおんなじ要領で治していくんだけど、次第に、徐々に、自然にっていう希望にそんなに託していても希望はそうそうないのだって、傷はなおっているのだから」
少し間が空いた。視線はいつの間にか俯き加減。何となくしおらしく見えてしまう、彼女の凛としていた声が、僅かではあるがくぐもって聞こえた。
「両親の事故現場が酷かったのよ、もの凄く生々しかったのよ、私は現場は見てないけれど、死体は見た。…食べ物の前でごめんね、下半身なんてなかったのよ。」
佐野が息を飲むのが分かる。自分も同じようになるのが分かる。酷かったとは聞いていたけれど、まさかと、自分の中の甘い考えに叱責を加える。
岡田だけ、先に病院に多到着していた彼だけがそれを知っていたのか、はたまた動揺していないだけか、微動だにしていなかった。
「…事故の後からの、あの子のうなされかたってどうなんだろうとか今たくさん考える。あの子しっかり見てるのよ、事故。凄くはっきり見てる。あの子の記憶を物理的に引っ込めさせたものと別に、出てくることを押しとどめようとしているものになってしまっていないかしら、って。それまで思い出したらどうなっちゃうんだろうって怖くなる、ねえ」
論説に似ていたものは、ふとそれが問いかけに変わって
「あの子、思い出して不幸になったりしないかしら」
世界にとって正しいことを言うのが大人で、子どもはそれをやれ理不尽だやれ分かってないと騒ぎ立てるけれど、大人だって子どもだった頃があって、それを忘れてなんていない、ただ年を重ねるごとに、自分が子どもだった頃の大人に近づくたびに、少しずつ大人と世界が何を正しいかどうして正しくしないといけないのかを頑張っていたか知っていって、だから歯を食いしばって自分も大人になる。それで、子どもが辛いときには谷底に突き落とすだけじゃなくて、抱きしめてやって、思いっきり撫でてやって、余裕で生きてんのよ、大きくなって大人になったらあんたたちもこうなれるのよ、って見せてやって、隙なんてないように弱音を見せないように生きて行かなきゃならない。それを知るのはいつだって大人になってからで、子どもにそれを伝えるのは本当に難しいし、伝えてしまっては意味がない。私はそういう風にならなくちゃいけない大人なのにね、そんで、貴方たちはまだ子どもなのにね。
こぼれ落ちていくように止まらなかった。彼女の長い言葉は、どうしてか謝罪に聞こえてしまって、首を横に振るしか出来なかった。佐野は俯いたようにして彼女を見つめていて、岡田は黙り込んだまま膝を抱えて椅子の上に座っていた。
「そろそろ、私は帰るね」
「え、あさお、あ、晴季さんに会って、行かないんですか…?」
彼女は、苦笑する、余裕の、苦笑。
「仕事、まだ残ってるから。あなた達がいれば安心だし、晴季によろしく言っておいて」
まだいるでしょう?と問いかける。頷く。また微笑む、今度は苦笑を取り払っていた、余裕の、微笑。今更よろしくなどと伝えてどうするのだろう。そこに含まれたニュアンスさえくみ取れない、だって彼女は便宜上でここにやって来ているわけではないから。
「じゃあ」
その去り際、いきなり立ち上がった岡田が、梨をふたつ、何も言わずに彼女に握らせた。ふわりと甘いにおいが流れて、彼女の手の上に落ち着いた。
姪の同級生の少年に、いきなり手に梨を握らされ、最初はぽかんとして呆気にとられていた彼女だったけれど、やがて笑みを浮かべ、ありがとう、と部屋を出ていった。その姿は、大人だった、そして昔は子どもだった。

「…オレ、聞いた」
俺から剥き終えた梨を受け取り、浅丘の叔母さんと同じように丸かじりする。椅子に座り込んで、しゃりしゃりと音をたてながら話をした。
「浅丘の制服が新しいのは、また作ったからだ」
「…そういやそうだよな、流石にぼろぼろになった、か」
「まーそう、なんだけど。…あいつの制服、血まみれだったんだ、破れてるし汚れてるし、それに血まみれだった」
その言葉は生々しく、それだけでリアルに迫ってくる。研ぎ澄まされて皮膚の寸前、呼吸ひとつで刃が触れてしまいそう。

「ソレ、あいつの血、だけじゃないんだ」
風が吹く、梨のにおいが流れる。扉が閉まっているので、部屋の中をぐるぐる回る甘酸っぱいにおいが、次第に感じ取れなくなってくるような錯覚。
「あいつのお父さんとかお母さんの血だよ、そんでその二人の袖とかにもいっぱい血がついてた。残ってた、浅丘の手形だよ、叔母さんわざわざ言わなかったけど、オレ、昨日聞いたもん。看護婦さんらが言ってるの、聞いちったもん。」
岡田の声は表情が読みとれない、モールス信号みたいに一定の間隔を保って流れ込んでくる。岡田がどんな表情なのかは、彼が椅子に座り込んで俯いているから分からないし、注目出来るほど一度にたくさんのことが出来る器用な人間じゃなかった。器用だね、何て、梨を剥くぐらいのものだ、俺は友人の感情さえ、読みとってやれない。
「トラックがぶつかって、二人がそうなって、浅丘がそれ助けようと引っ張り出そうとして、周りのが倒れてきた。この時どんな意識だったか分かんないけど、トラックがぶつかってきた時も既にフショーしてたみたいだけど、決定打は事故の瞬間じゃなくて、二回目。」
ただ、佐野が目を見開くのが分かった。知らなかったんだろう、俺だって今の今まで知らなかった。岡田がため込んでいたのは良いことではなく、だからと言って気軽に俺達に言えたようなものでもなく、

「浅丘は、見てるよ。ちゃんと、浅丘の目で、耳で、肌で、感じ取ってる、二人がぐしゃぐしゃになったとこ、その感触も全部、ちゃんと。そんで、忘れてる」
梨を剥く手はとっくに止まっていた。果物ナイフがかしゃんと、刃物にしては弱々しくいささか頼りない音を立てて皮を入れる器の中に落ちた。

「あいつが思い出すってことは、そういう、ことじゃん」

幸福も不幸も分からない、それでも、苦しみからは逃れたい。僕らは未だに子どもだ。

年を重ねていけばどうにかなるんだろうか