「四時間目、終わった」
浅丘の肩を叩いた。顔を隠すこともなく眠っていた彼女は、ふと寝ぼけた眼差しでこちらを見る。その姿に一瞬どきりとはするけれど流石に付き合っても居ない今はそんなこと言えない。いや、付き合っていたとしてもそんなことを面と向かって言える自身は皆無だけれども。
「……え?」
「お前、寝てたよ、メシ」
「…あー、うん、ありがとう佐野くん、怪物から助けてくれて」
「はぁ?」
「…今、ほんと怖い生き物に襲われてた。多分あれは怪獣なんだ、目玉が左足の裏と右手と鼻の頭についてて、耳垂れが出てて、鼻血出しながら襲ってくるの、三メートルくらい、あった…」
「…耳垂れ?」
そんな怪獣が出てくる映画がヒットしないことは確実だ。ていうか耳垂れと鼻血を出しながら襲ってくるというのはあらゆる意味で受け付けないけれど。例え姿が人間だったとして。
「…うん、ありがとう、佐野くん、うん」
こいつまだ寝ぼけてるな。とりあえず起こした。
「はるちゃんお弁当食べようー」
向こうから彼女の友人達がそれぞれの昼食を抱えてやって来る。彼女は朝登校してから、以前の友人達と仲良く出来ているようだった。記憶喪失という事態は事前に担任教師からも全員に伝えられていて、浅丘さんも大変だと思いますが皆さんでサポートしましょうねなどという台詞も配られていたため、順応は予想よりも早かった。最初こそ皆”記憶喪失”ということに戸惑ったのかもしれないけれど、浅丘の以前のような明るい態度に安心したのだろう、たった四時間授業を受けただけなのに(最後の1時間、彼女は寝ていたけれども)もう今まで通りのように見えた。
実際は、本人にしか分からない苦痛も不便もたくさんあるだろう。浅丘が以前と変わらないテンションで居続ければなお、会話の盛り上がりも生まれる、それ故、それまでの話題がさっぱり掴めない彼女はきっと大変だ。初対面の人間と同じなのだ、入学してから築き上げてきた互いの関係がリセットされてしまったも同然…というけではない、そう、彼女の友人が彼女に言っているのを聞いた。
「あんたが忘れてても、私らが全部覚えてるから、そのうち思い出すよ」
「…私らだけ覚えてるってのも何だね、どうせなら私たちも忘れてもっかい初対面から友達になりなおすとか」
「そしたらあれ、あんたが犬にびびって弁当ぶちまけた話とか、高校生になってまで先生の花瓶割った話とかも全部チャラだわ」
そう言って笑う。浅丘が一瞬困惑して、寂しそうな泣きそうな顔を、本当に一瞬だけ見せて、その後笑った。横目で伺うように見ていた自分は少しばかり怪しいと思うけれど、気付かれていないだろうからと安堵していたら、ふいに浅丘と目が合った。はにかむその表情を見ていられなくて、笑い返せなくて目を逸らした。気まずくなってしまうかと思ったけれど、授業が終わったと肩を叩いた時、普通に話してくれたから安心した。やっぱり俺は嫌な奴だなと思った。
思った、理解していた、だけど、まさかそれを誰かから真っ正面から、言われるとは思わなかった。
「お前嫌な奴だよなー」
「…はぁ?」
友達と中庭へ向かう浅丘の背中を見送った後。昼食を一通り終えて、パック牛乳を飲む岡田がそう言った。何の前触れもなく。さっきのさっきまで、部活の話しをして、後半から委員会の集まりに言った坂谷の食欲について語って、中学時代からよく喰う奴だった、と話して、残りの弁当をかきこんで、その後。
「ずるい」
「…意味わかんね、何、俺お前になんかしたっけ?」
それ以降、二度ほど話しかけたけれど岡田は何も答えなかった。睨んでも来ないしいつもの顔で笑いもしない。ただ表情を変えずに、1.5リットルの牛乳をストローで飲んでいる。俺も自分に非を覚えているわけじゃないのに何度も尋ねるのも癪なので、数分沈黙が流れた。

「俺、牛乳飲み過ぎてぶっ倒れたことあんだよねー」
「…ほー」
「近所に住んでたねーちゃんより背が高くなりたくてさー、中学ん時に飲みまくったらちょっと限度越えちゃってさー」
「何だよお前、近所のねーちゃんに惚れてたのか」
「そーそー、カレシいたんだけどね、部活帰りにばったり会っちゃって。あ、陽ちゃん、なーんて手ぇ振られてさー、すっげえきらきらした笑顔。向こう、あ恋人ね、そっちもすっげーにこやかな笑み浮かべちゃってさ、オレに挨拶とかしちゃうの。ちょー格好いいのその人。雨に濡れた犬とか何匹でも拾ってきそうな感じなの」
「それはそれは」
「もうかなわねー、みたいなね、中学生のガキにそういうものを押しつけていったわけですよ、もうオレの長きに渡る片思いのオシマイ」
「あ、お前実は初恋だったり?」
「そー。ちっちぇー頃から、ぜってーあのねーちゃん嫁にすんだーって思ってたからさー」
そしていきなりその沈黙を破ったかと思えば、先程の台詞など微塵も感じさせない類の話。
「岡田、さっきの…」
「その恋人憎むとかいう気には全然なれなくてさー、どっちかっつーとあのねーちゃんに選んで貰えなかった自分がすっごい悔しくてさ、だから将来は絶対、すげーイイオトコになってねーちゃんに見せて、そん時のオレにさよならするつもりでさ」
案の定、話を蒸し返そうとすれば遮られる。気にくわなかったが、とりあえず今の話が終わるまでと区切りをつけ、彼の話に耳を傾けた。
「馬鹿みたいだと思うけど、そん時は必死なんだよね、全部叶えられると思っちゃうし、冷静になって、どっちのが何がどうとかライバルがどうとか周りがどうとか、考えらんねーんだ、理性でコントロール出来るようなんだったら苦労しない」

ふいにそれが重みを持つ。

「…佐野」
「ん?」
「オレは浅丘が好きだよ

随分前から知っていたから、俺は嫌な奴なんだろう。