重たい瞼を開いたら、きらきらとした秋の日差しが目に染みた。燦々と降り注いで空気に滲んでいく。開いた窓から吹いてくる風が少し冷たい。もう十一月なのだと、携帯電話の表示で気付いたのは今朝。寒くなり始める時期だ、昨日気付いたことなのだけれど、私は寒さにあまり強いタチではないようだ。さっき脱いだブレザー、もう一度着よう。ぼうっとした頭で決意して瞬きをした、それと同時に、目の前に迫っている大きな顔を捕捉。

「…ぎゃあ」
「何だそのとってつけたような悲鳴は」
「…おはようございます」
「おはよう浅丘、今数学の時間なんだよ、知ってた?」
「知ってました、…十五分ほど前までは」
「じゃあこれからも知ってネ」
下手くそなウィンク(無論わざとなんだけど)を私に向かって投げつけて、先生は黒板の前まで戻り、書きかけの数式を続けた。くすくすと回りから聞こえる笑い声は、私の失敗に対するもののはずなのに妙に心地良い。教室の雰囲気に浸っている気がするからだろうし、自分が前からここにいたのだと何となく暗示してくれるからだろうし、心の底からの悪意だとは感じられないからだろう。
…ああそうか、今私は学校にいるのか。やっと寝ぼけた頭が認識した。世界が白だけでないのはこの所為か、目を開けていられるのはこの所為なのか。
病院というのは本当に白い場所で、それは光がつくと思わず目を細めてしまうくらいだ。何もない世界に放り出されたようで何だか少し不安定になりそうな場所。もしかして治療療養にはいい色なのだろうか、今度先生に聞いてみよう。
椅子にかけてあったブレザーをとって羽織ると、後ろを振り向いてこそりと話しかけてくれたのは坂谷くん。

「どしたの?寒い?」
「あ、大丈夫」
「閉めようか、窓。風が入るよね」
微笑んで腕を伸ばし、そっと窓を閉めてくれた。ありがとうとお礼を言う。どう致しまして、寝ちゃ駄目だよ、とちょっと茶化したように言って、坂谷くんは前に向き直った。
その柔らかな物腰に相応しい、少し色素の薄い髪が、秋の日差しを綺麗に吸収している。これはこれで、病院とは違った眩しさ。
生憎私は全てを忘れてしまったけれど、坂谷くんはきっともてるだろうなと思った。こういうさり気ない優しさが素敵な男の子に惹かれる女の子は多いと思う。すらりとしているし、サッカー部だから運動神経も悪くないし、背も高いし頭も良い。今現在彼女はいないと言っていたけれど、狙っている女の子は数知れないだろう。彼氏にしたいというよりは、どちらかというと旦那さんにしたいタイプかもしれないな、とか何とか、坂谷くんの背中を眺めながら馬鹿みたいに考えていると、また瞼が重くなってきた。
しかし流石に今さっき注意されたばかりなので、こんなにさっさと再睡眠というわけにもいかない。せめてもの反抗で、机に身体を伏せ、視線だけ前に向けた。
どこかのクラスから、拍手の音が聞こえる。無機質な授業の声も聞こえる。グラウンドの方からは、陸上用のピストルの音やそれらを取り巻く騒ぎ声。窓はもう閉まっているけれと、風が吹いて木々をざわざわと揺らす音も聞こえる。近くからはシャーペンの芯を出す音、紙の上を這うカリカリという筆記音、先生の断続的な説明の声に、チョークが黒板で擦れる音。
坂谷くんの隣の席では、岡田くんがもう清々しいくらいに眠っていた。顔を机に突っ伏している。授業が始まってすぐの頃からあんな感じだったので、先生ももう何も言わない。岡田くんが数学を大の苦手にしているのは聞いていたので、更に授業が分からなくなってしまわないか心配になったが、彼曰く”イマサラ授業聞いてて分かるよーなレベルだったら苦労しない”らしい。そっかと頷いたけれど、よく考えてみればそれってもの凄くまずいんじゃないだろうか。
私が忘れてしまっているたくさんのこと。岡田くんが数学を大の苦手とすることも、坂谷くんのペンを回す癖も、佐野くんのことを好きだったことも、付き合っていたことも。それら全部、ゆっくり思い出せばいいよと病院の先生は言うけれど、私は一刻も早く取り戻したいみたいだ。
かけ算九九が出来るなら、九九を言えるようになった日のことを覚えていてもいいものだと思うのだけど、そこだけ濃い霧がかかったようにさっぱり見えない。鏡を見ても、誰が私の仕草を真似ているのだろうと違和感ばかりが浮上する。
お葬式の時には黒い服を着て、女の人はパールのネックレスをするということは分かるのに、どうして自分がここに立っているのかが分からなかった、なんて。いや、ここにいる理由こそ父さんと母さんが死んでしまって、私はその娘だからだという話なのだけれど、どうしてそうなってしまったのかがさっぱり分からないのだ。何だかもの凄く息苦しくて痛い場所に居て、ふと目を開けたら何も思い出せなくなっていた。その苦しい場所が、皆の言う”事故”の起きた場所から病院で目を覚ますまでの時間なのだろう。そう思うと、ますます訳が分からなくなる。
私と父さんと母さんは、三人で出かけていた。二人の給料日、外食をした帰りだったらしい。私は後部座席で、携帯電話を使って友達にメールを送ったらしい。その直後、居眠り運転をしたトラックが、交差点で横から突っ込んできたらしい。私は何とか助かったけれど、父さんと母さんは即死だったと。誰もこれ以上詳しく事故の状況を話そうとしない。私が混乱してしまうだけだと思っているからだろうし、正直本人としても事故現場の状況を事細かに解説して貰いたいとは思わない。けれど神様というのは残酷な悪戯を好むもので、看護婦さん達の話をきっちりと私の耳まで届けてしまった。親御さん、下半身はなかったそうよ。
下半身なかったってどういうことよ、私の両親は上半身だけで生きていたのだろうか。そんなはずない、つまりそれはそういう事故で、ということ。
私が病院で見せられた両親は、二人して真っ白なベッドの上に寝かされていて、よく漫画であるような白い布が顔に被せられたりなんてしていなかった。私に顔を見せる為にはずしたのだそう。救急車に乗せられた時は既に死んでいることか確認されていたらしいのに、二人の頭にはこれまたおそろいの真っ白な包帯が巻かれていて、それ以外に大きな傷は見受けられなかった。この人たち本当に死んでんの?ぼうっと思った。
今は病院が遺体を綺麗にしてくれるのだ、交通事故で死んだままの、下半身がないままの遺体なんて、可哀想?
ぐらりとした。気持ちが悪くなった。けれど私は立っていた。よろめいてすらいない。気持ち悪くなったのは生理的なものだ、死んだ人を、(恐らく)初めて目の当たりにしたから、身体の芯が吃驚してしまったのだ、揺すぶられてしまったのだ。
だから怖かった。私の目の前にいるのは、私の両親の、死した姿。それなのに私は涙を流せない、今の感情は悲しさじゃなく虚しさ。私を今まで育ててくれた唯一無二、かけがえのない大切な人達の死だというのに、私にはそれが誰だかすら分からない。誰が死んだのかすら分からない。テレビ画面の向こう側、ニュースで人が死んだと言われることと、彼らが死んだと言われること、死の感触が、他人がいなければ変わらないなんて。
人は皆、これは私の両親なのだと言う。私の知らない人達が言う。彼らは私が生きていることを奇跡だと言う。私の両親が死んでしまったと言う。今にも起きあがって来そうな二人を見て、もう動かないのだと言う。これが私の両親なのだと言う。私が覚えていない人たちが、私が覚えていない私の両親の死に、私の流せない涙を流して悲しんでいる。
黒と白の交差の中、お線香の甘ったるく煙っぽい空気。母の兄、つまり私の伯父にあたる人と、父の妹、つまり私の叔母にあたる人が寄り添い、葬儀の準備を進めてくれた。参列した人の中には、私が記憶をなくしてしまったことを知らない人もいて、そんな人が挨拶をくれる度に戸惑ってしまう私を、私以上に戸惑った目で見つめてくる。中には訝しげな目で見る人もいる。居心地は悪いけれど、それに苛立ったりしない。出来ない。だって私はとてもずるい。頭を打ったショックでと言うけれど、結局、私は父さんと母さんの死から逃げた、今までの思い出を全て手放してしまった。悲しみと向き合うことが出来ない。伯父さんも叔母さんも悲しくて涙を流す。参列してくれた人達の中からもすすり泣きが聞こえる。なのに私は泣くことが出来ない。悲しいと思っても虚しいと思っても何を思っても、涙が出てこない。出てきたらそれは、逃げ出した弱虫の女優的な偽造涙。
そんな人間に同情の余地なんてないのだから、どうぞ罵った目で見てほしい。記憶無くしたとかフリなんじゃないの、そうだ、いくらでも言ってくれ、真実だから私には何も言えないけれど、それで気が済むのなら何度だって言ってくれ。親の葬式で涙ひとつみせやしない、可愛くない子だと、そう、いくら言ってくれても構わない。可愛くない子だ、そうだ私は恐ろしく醜いのだ、大切な人たちのことを全て忘れてしまった。不可抗力なんて言葉は私を偽善という盾で守るだけだから、意味なんてない。記憶がなくたって、親の葬式と言われたら泣くな、私だったら。声が聞こえる。
そうだよね、泣くよね、悲しいよね、私、おかしい。
「うるさい」
葬式の後。どうしてか始まる関係者の宴会に酷似したそれの中、まだ色々な手続きで伯父さんと叔母さんは不在。隣に座っていたのは岡田くんだった。その言葉を発したのも、岡田くんだった。
貴方が最後にメールを送ったのは岡田くんだったの。叔母さんの台詞が反芻する。
いい感じに会話が盛り上がってたのに、いきなり返信がぷつりと途絶えて。部活の連絡網回そうとしても、電話にも出なくて、何だろうどうしたんだろうってぐるぐるぐるぐるしてる時に、顧問の先生から岡田くんに電話がいったんだって。サッカー部で、あの子の家が一番、あの病院に近かったから。
そう言えば、手術のあとかな、何も考えないぼうっとした時間の中に、人の影を見た気がする。その時のことは殆ど覚えてないけど、付き添ってくれていた伯父さんや叔母さんとは違った、真っ青な服の人。あれはもしかしたら岡田くんだったのかもしれないなあ、なんて、今の私が出会ってから三日しか経っていない人をぼんやり思った。
「ほんと、うるさい」
「岡田」
坂谷くんの止める声。

「馬鹿にすんな、お前らみたいに悲しんでる人間理解出来ないような奴らに、こいつの気持ちなんて分かるもんか。浅丘に謝れ、ふざけんな」
私が泣いたのは一瞬だけだ、涙なんて本当、面白いように一滴だけ、頬を伝う温かい感触で何となく分かっただけだ。
四時間目の数学の授業、もう一度眠ってしまっていたようだけれど、先生はもう起こしに来なかった。


ゆめをみていた