ああ、神様。どうしよう、どんな雑踏の中でも佐野くんの声だけ分かるようになってきた。これは完全な病気だ、耳の病気だ、多分人の声の周波数がうんとやらで佐野くんの音だけ異様にとるような耳になっちゃったんだ、どうしようどうしようどうしよう、耳鼻科へ行きたい。しかしそうなると、病人は私だとしても、周波数の発信源である佐野くんにも来てもらった方がいいかな、ああでもお医者さんが佐野くんの周波数でやられちゃったらどうしよう。
そう言えば最近私は変だ、声をききとる耳だけじゃない。佐野くんの顔を見ると心臓が変に動くし何か熱が出だすし、何かぼうっとしてると頭の中に佐野くんがふわふわ浮いてくることがあるし、席が隣でよかったなあって何故か思うんだよ、寝ているところを起こされるし頭は叩かれるし、しょっちゅう馬鹿にされたりするのに、隣の席で良かったなあって思うんだよね、まずいよねこれ病気なんだよ、最近もう本当まずいんだ、病院、この場合はどこが一番いいんだろう耳鼻科だけじゃ足りないんじゃないかと思うんだけどさ。

「というわけなんだけどどうしよう佐野くん」
「…お前死ねば」

言い終えた後の私の目の前の佐野くん、表情は最悪だ。今までこんなに不機嫌な顔をしている人を私は見たことがない。
普段から目つきのいい人じゃなかったけれど、いつも小難しい顔をして人を睨んでるような感じで眉間に皺よせている時が死ぬほど多い人だったけれど、現在のその目は今までで最凶。
「ひどい!私は真剣に相談しているのに!」
「それがウザいんだクソ」
「そういうこと言う!?」
「言う」
朝の教室のざわつきの中に私たちの声は混ざってしまうけれど、ほらやっぱり、佐野くんの声を聞き取るのに全然苦労しない。何だか簡単に響いてくる。佐野くんの声質ってそんなに響きのいいものだったのか。

「それとも佐野くんコーラスとかやってるの!?声が凛と響くように訓練とかしてたの!?」
「俺お前と同じ部活入ってなかったっけ」
「あ、そっか。」
「もう10月ですけど、そんなことも分からないんですか。お前ほんと何言っての?頭おかしいんじゃねえの?いやそれは知ってたけど何て言うか、何か湧いて来ちゃったんじゃねえの?一番行くべき病院は精神科あるとこだ」
「ええ、じゃあ一緒に…」
「一人でいけ」
「えー無理!」
「何でだよ、医者ぐらい一人でいけんだろもう高校生だろうが仮にも」
「それじゃ意味ないじゃん!」
「はぁー?」
「だって!!」
私が机を叩く。少し佐野くんが驚く、ほんの少し。気にもとめずに続行。
「だって別に平気だもん、他の人のは全然平気なの、佐野くんだけなんだもん、坂谷くんにも岡田くんにも全然平気なのに佐野くんにだけ変なんだもん、どうしようもないじゃん」
もっともな主張を終了させて多少満足に浸り、さて理解して貰えただろうかと佐野くんを見つめる。しかしまあ当の本人は少しの間下を向いて押し黙った後、長いため息を吐いて手を額に当てた。
いい兆候ではない予感、身構えるは私の反射。
だけどほらまた心臓に異変。死ぬ死ぬ死ぬ。

「…浅丘」
「なに!?」
「しばらく俺に話しかけんな」
「は、えー!?」
「話しかけたら医者なんて知らねーから」
「…えー」

わけが分からない私が頷かないうちに、佐野くんは黒板の方に向き直り、とっとと一時間目の授業の準備を始めてしまった。後は何を話しかけても無視、無視、無視。透明人間ごっこをした時に似てる。あれは辛かった。サッカー部なんてやめてやろうと本気で思った。マネージャーなんて他探せや、と思った。本気で。

「…酷い」
「まあまあ」
絶望の抗議をもらした私に、ふと前の席の坂谷くんが振り返って苦笑い。いつも泣きつく先、今回もと思いきや以外な一言が彼の口からやって来る。
「今回のは浅丘にも非があるし、ね」
宥めるようなその口調。東高サッカー部の母と命名したらお願いだからやめてと言われた。ぴったりだと思ったのは私だけではなくて、他部員の反応も肯定だったのだけれど、大概は浅丘と佐野の仲介役だよなと言われつつだったが故に複雑な思い出。しかし真実。
「えええ、何で、何で私が悪いの、私は素直に佐野くんに相談しただけなのに」
「いやー…」
「坂谷、余計なこと何も言うなよ」
私の方を見もしないで言い放つ佐野くんを睨んでももはや完全なる無反応、ここまで来ると腹立たしさすら覚える。私が何をしたというの、そうだ、私が何をしたと?相談はそんなに迷惑だったのか。
そう言えば、佐野くんへはいはいとおざなりな返事をしていた坂谷くんは首を振る。
「迷惑ではないと思うよ」
「じゃあ何で佐野くんはあんな態度なんですかね、酷い」
苦笑と曖昧な返答。
「いやー、何でだろうね、…あ、ほら、男の子の事情?」
「ああ、やらしい類の話?」
「何で?」
アバウトすぎて分からないよ、と文句を言ったら、隣の席から岡田くんが乗り出してきて、浅丘のがいっつもアバウトな生き方なのになー、と笑って言ってきた。腹立ち要素が増えるだけなので絡まないようにしようと思いつつ、昨日部室に出たガムテープまみれのゴキブリの話を始めたら弾んでしまい、先生に頭を叩かれるという失態を犯すはめになった。その悪夢は続行されていて、お弁当を忘れてしまったことに気付くお昼休み、しぶしぶ購買へと走ることになったわけだ。予定外の出費が痛い。
佐野くんの姿を横目でちらり、けれど相変わらず続けられているその完璧無視に憤るどころかもはや悲しくなりつつあるのはどうしてだろう、やっぱり病気なのだ、私の人生はこんな所で終わるのか、ジーザス。まだやりたいことがたくさんある、千疋屋の秋季限定栗パフェも食べてないし、新発売のマロンミックスチョコレート牛乳も飲んでないし東海道中膝栗毛は読み終わっていない。それに、佐野くんに口をきいて貰えないでいる、今。
病気よりも苦しい、このままじゃ死ねない。

…あれ、私が死ぬ話?神様お願い、まだ死にたくない。


まず第一