青い子どもが泣きじゃくっている。私が手を伸ばしてもその子は私の手に触れない。理由は分かっている。世界は腐臭に満ちていて、自分も他人も腐ったにおいしかしないからだ。相手には私が分からない。
その子どもには目がない。眼球がえぐりとられ血の涙を流している。私はそれを知った瞬間に後ずさりをする。後ろにあった壁にぶつかる。振り向く。壁ではなくて人だった、最愛の相棒、彼の片目もまたない。えぐりとられた眼球を隠すために眼帯をつけている。私とお揃いの、嬉しくない眼帯。私には両目がある。それでも私は眼帯をつけている。隠されている左の目を見られたくないからだ。翡翠の目はのろわれたしるし、私の世界の秩序を壊した魔女の血を引く、のろわれたしるし。
世界は眼球をえぐりとられた人間であふれかえっているから、眼帯はもはや見られた代物。魔女は目玉が大好きだ。口に含みにかにかと笑いながら咀嚼するらしい。全部聞いた話だ。私にそれを教え、お前はその魔女の血が突如あらわれてしまった不幸な子どもなのだと諭し、私を捨てて両親は消えた。どこにいるのか見当もつかない。今頃魔女に目玉を食われて路頭に彷徨っているのかもしれない。どちらでもよいと思った。
光の中を突き進んだ相棒、彼が世界を愛さない理由は魔女なのだと言う。全てのことに長けていた彼は魔女を愛する。私も魔女を愛する。のろわれた左目もそれを理由に私を捨てた両親も気にならない。魔女は目玉を食べ魔力を蓄えこの国を滅ぼすというけれどそんなのが嘘だってことぐらいとっくの昔に知っている。
魔女、魔女、魔女、会いたいと思っていたら会うことが出来た。彼女は目玉を食べたりしない。ただ単なる眼球のコレクター。天まで続く長い長い階段、一面どこを見回しても青空ばかりで、名のある音楽家のつくった浮遊するようなハープのフーガが流れる天国のような地獄で出会った魔女はとても美しかった。私と彼を見た途端、魔女は高らかに笑い出す。放歌高吟、嫌味っぽくなんかないし、ぜんまいの壊れたおもちゃのようでもない、ただ嬉しそうに高らかに笑う。魔女の声は夢のようだ、脳内に入り込んで私という人間の感情を全て麻痺させて温かくして溶かして愛する。二度と忘れない、忘れられない魔女の声。歌うような笑い声。
彼の腕で私はこちらに帰ってくる。夢から覚める。私を後ろから抱きしめて名前を呼んでいる。それでやっと私の脳は魔女の声から少し離れて周りを見渡すことが出来た。ありがとうと言って彼の目を見たら透明な膜が覆っていてそれがふいに盛り上がって、彼の綺麗な瞳からこぼれ落ちる。それが涙ということを知っていた。そうして、魔女の声とは全然違う、ずいぶん近い場所で、何より愛しい彼の声で、その名前がもう一度呼ばれ出し決められる。温かい。魔女の甘く溶けそうな毒に負けないくらい優しい。そこに甘美さなんてものは何もないのに、すすけた世界なんてものから離れてしまいそうな私は嬉しい。
「おかえりなさい」
魔女、世界はどうして笑うんだろう。 どんなに偉い裁判官もどんなに賢い哲学者も何も言えない。魔女、愛しい人、もう二度と、世界は元には戻らないでしょう。