「愛されることしかしらないのです、ええ」
「それは君にとってとても大きくて重大で軽やかに羽をもぎる発言だね」
「だって仕方がないんです、私の記憶というのはここ一年のものしかなくて、それは貴方と出会ってからのものだけで占められていて、貴方は私をこよなく愛したのですからね、朝凪。」



そう言って、手に持っていたポテトチップ(カルビー海苔塩味)を口に放り込んだ識の横顔はうっかり見惚れるほど今の景色に溶け込んでいる。風景がの一部、近代中世のヨーロッパの絵画だってこんなに美しくない。ニーチェだって長門皐月だってこの美しさを言葉にすることは出来ない。叶わない、それは不可能の領域。
僕だって、美しいという言葉しか出てこなくて、ただただ、困惑。
そうきっと困惑だ、困惑しかないはずだ。


まだどこか冷たさも残し、凛とした空気。朝の空気、心地よい朝。渦巻くのはすがすがしい気持ちと、肺を満たす吸い放題の酸素。
微かに香る草のにおいと、青と赤と光の巧妙且つ雄大なグラデーション。コンピューターソフトの表現することが出来ない領域。



「忘れました、余計なことは、全部。あの事故、私にとっては幸せなことだったのです、母さんのことも父さんのことも忘れてしまった私だけれど、二人を不幸にしてしまった私だけれど、朝凪」
「いいよ、何だ」
「朝凪、誤解しないで聞いてほしいのです、私、この街を出ていきます」


驚かなかった。僕は全然驚かなかった。知っていたからだ、いつもよりもやけに早い出発時間ややけにシンプルな荷物からではなく、彼女の持ち纏う空気が雰囲気が何もかもが、音とならない言葉になって僕に語りかけているような気がしてたまらないでいたから。


「そうだろうと、思った」
「そうですか、流石です、朝凪は凄い」


そしてまた口にポテトチップを運んだ。ぱりという小さな音を立ててヤツは崩れる。口の周りに海苔の欠片ひとつもつけていない彼女は慣れている。きっとコーラを飲んでも鼻がつんとするような喉鳴りもないし、ハンバーガーもケチャップをどこにもつけることなくビックマック以上のものをクリアすることが出来るはずだ、断定。
断定。明確にすると随分と危うい言葉だけれど、僕は誰よりも彼女を理解しているつもりだった。つもりだった。そうで、ありたかった。



識と彼女の両親が船の事故に会う。両親が死ぬ。識が集中治療室に一ヶ月入る。身寄りは一年前に天涯孤独の身となった大学生である僕しかいないと言う弁護士がやって来る。識が目を覚ます。記憶を亡くしていると判明する。それでも遺産を相続する。僕の家で、彼女は住み始める。
僕の家を、識が出ていく。
所要時間は一年弱。

何を目指して彷徨っていたのだろう、二人。

「朝凪、貴方のお父さんのことを覚えていますか」
「ああ、最悪な男だったな、母さんを毎日殴っていた。僕もよく殴られた」
「お母さんのことは」
「そんな日々に嫌気が差し鬱病通り越して目がいっちゃってる人だったよ、僕の目の前で父さんを刺し殺して自分で自分の喉をかっ切って死んだんだ、優しい人だったけれど、いつしか今すぐ泣き出しそうな笑顔しかみせてくれなくなったな」
「朝凪」

遠くを見つめる目。そして僕を見透かす目。
淀みのない瞳を、識は僕に向けた。

「私とそのお母さん、似ていますか」
「…全然」
「そうですか、良かった」


最後のポテトチップスを食べ終わったのか、随分と小さくなったビニール袋の口を閉じ、一息つき、彼女はまた口を開いた。

「私、朝凪にはいつでも笑っていてほしいと思います」
「……」
「だけどいつも笑っていると気持ちが悪いので、たまにはタンスの角に足をぶつけたり、豆腐を顔にぶつけられたりしても良いです、お魚を加えたドラ猫を裸足で追いかけていくことがたまにあってもいいと思う」
「…識」
「でもそれにはどこか終わりがあって、貴方の行き着く先は常に幸福であってほしいと思っています、朝凪、貴方は私の恩人なのです、知らないということは何より怖い。白い紙は何色にでも染まるから」


川の水の流れがちろちろと耳に響く。識がさっと近くの小石を掴んで投げたら、ひうんと放物線を描いて、それは草むらの向こうの水中に落ちたらしい。ちゃぽんと落下音がした。


「私、幸福探しに行ってきます」
「今は幸福ではないの?」
「凄く幸せです、私は」

東の空を見つめて零すような声で、識。識。
「愛されることしか知らないのです、幸せです、幸せの象徴です、私が死んだら私を幸せの像と名付けてブロンズで固めて亀有の両さんの隣に建てて下さい」

識、識、識。

「しかしですね、ここには朝凪の幸福がない」
「…僕には、識が」
「ええ、ええ勿論私の命が尽きるまでは貴方を全身全霊で幸せにしようと努力します、こんな結滞なもので貴方の心が世界が満たされるのならば処女だって捧げましょう、だけれど、だけれど朝凪、それでは駄目です、貴方も知っているはずです、この身体はこの存在はもうあまり長くの間保たない」
「……識」
「命尽きるその時まで貴方に寄り添っていた所で、満たされるのは私だけです、仮に貴方が私を忘れないとしてそれは苦痛です、大好きな人が死ぬのは自らの死より恐ろしいです、きっと。私は何も知らないけれど、きっとそうでしょう、朝凪」

「……うん」


あの日のように泣いたり出来なくなった。暗い部屋の中に一日中篭もる時間が日に日に増えていった。何を食べていたか何て覚えていないし、風呂に入った記憶もベットについた記憶も何もなかった。
そこに尋ねてきた弁護士は、僕の廃人ぶりに眉間に皺を寄せながら、話をしたのだ。識のはなしを。
彷徨っていた、識のはなしを。


「だから私、探して来ます、何か得られる保証はないけれど、得られない確証もありません、螺子が切れるその日まで待っていて下さい、最後が鎖である所がいささか申し訳ないのですが」
「…救われていたのは、いつだって僕の、方で」
「朝凪」


ポテトチップのどきどきするように派手なパッケージを目の前にずいと突きつけられた。それをかさかさと左右に振る。

「あと一枚入っています」
「…うん」
「差し上げます、きっとこんな風に、少しずつ、朝凪が笑ってくれるようになればいいなぁと思います、今日も明日も貴方のことを考えて生きていきます、ありがとう、朝凪、ありがとう」



僕は笑っていたらしい。

識、識、識。しき。名前を呼んでも届かないか、どうしてだ、僕らの間に引かれたどうしようもない境界線。拒絶線?いつだってどうしようもないのか現状か。

幸福の定義を映すなら、識そのものが幸福なのだと言えれば良かったのだけれど、如何せん、識はその後僕の前に姿を現すことはなく、僕は一生幸せになれそうにないのだが。
どうしてくれる、おおばかもの。