いつも決まって真夜中に現れるあいつは、天井に張り付いて私を見下ろしている。この世界の重力の法則をまるで無視してそこに立ち、私と鼻の触れあうくらい、息がかかるであろうくらい、その距離まで顔を近づけて。すらりとした体躯は羨ましいと同時に喪失感。
こんなに綺麗な顔立ちをしているのにこの距離に頭があっても私はときめいたりしない。心臓は早まったりしないしむしろ早く去ってくれと運動を低下させ始める。何てこったい、このままじゃ私の生命活動は停止してしまうじゃないか。
私はこいつが誰だかを知っている。深い海の底の宝石のような双眸のこいつが誰だかを知っている。夜間、名乗りもしないで乙女の部屋にいる実に無礼な者だけれど、私には分かる。こいつは死神だ、私の魂をとりにきた死神。私が隙を見せるのを待っているのだ。
最初は睨み合うかのように目を合わせているのだけれど、そのうちふと意識がなくなって、気付くといつも朝になっている。あいつはいない。朝の光に消化されてしまったのだろうかと私は学校へ行く仕度をするけれど、夜になり、気付くとまたそこにいる。闇の帷と共に、音もなくやってきてはそこにいる。
私に死にたいという気持ちは全くないので、残念ながら諦めて貰うのを待つしかない。けれどあいつは随分しぶとくて、こんな夜がもう半年続いていた。
あいつは消して喋らない。その目に写る私の姿は酷く格好が悪い。死神はそれを分かってる。世界で一番格好が悪い私を分かっている。
私はこいつに一度会ったことがある。ずっと小さい時、桜の木の前で会った。毎年凄く綺麗な花を咲かせる古い桜の木。
その時はこいつの声を聞いたんだ。こいつは私に、自分は死神なのだと言った。お前の魂をとるつもりだと言った。使いもしない大鎌の像を見せて声を凄ませた。クールじゃない。小さかった私は泣きそうになって、嫌だ嫌だと喚いた。煩そうに耳を塞いだあと、じゃあこいつの魂変わりに貰っていいかと聞いてきた、桜の木を指さしながら。
「いいよ、何でも持っていって」
あの時あいつは、そうか分かった、お前の変わりにこいつが死ぬなと言って、桜の花から暖かい光の帯のようなものを奪っていった。次の日に桜は枯れて、二度と咲かなかった。花を楽しみにしていた老人会の人達は元気がなくなり、毎年皆で執り行っていたお花見会はなくなった。私の命に比べれば安いものだ、そう思ったこともあったけれど、私の命はそんなに重いものなのだろうかと不安にもになった。
桜を身代わりに生き延びたあの日から、私の夢には毎日あいつが出てくる。ずっと変わらない姿、気付いたら私はその姿と同じ年頃にまでなっていて、ああ目線が近くなってきたな、と自覚したその日から、あいつはまた私の目の前に姿を表すようになったんだ。
「本当に?」
あいつが喋る。10年ぶりに声を聞く。意地の悪い声なのに、どこか凛としていて美しい。
「今度は桜は、助けてくれない」
「だってあの時、桜は死にたくないと叫んでいたよ、聞こえていたでしょう」
「勿論」
「だけど貴方が殺したよ、私の代わりに殺したよ、だから今度は私なのでしょ」
「誰かの代わりに誰かが死ぬのは間違いだ。誰かは死んじゃいけない。」
死んでいい存在がひとつもないなんてカミサマみたいなこと言えないけれど、しにガミサマの言う通り、私は桜を殺してしまった。だから私も魂をとられる、私の魂は私でしかなくて、桜の魂では足りなかったそうなのだ。
「お前はお前で桜は桜、そもそも俺様が取りに来たのはお前の魂で桜の魂じゃなかった、はき違えていた、畜生畜生。人間に説教たれる前に俺様が自分に言い聞かせるべきだったんだ、畜生畜生。」
十年ぶりにきく死神の声はあの頃と全く変わっていない。姿も変わっていない。ただ、今の彼は酷く疲れてみえる。
「お前の魂が欲しかったのに、桜の魂を持ってかえって怒られた。いつでもお前の魂を持っていけばよかったんだ、畜生畜生。なのにお前があんなに泣きそうな顔で桜を見ているからとるにとれなくなっちまった、畜生、畜生、畜生!!」
今の死神は酷く人間くさい。夜の闇はしんとしていて死神の声を綺麗に通す。なめらかに滑る、ピアノの鍵盤の音でもこんな綺麗にはゆかない。
「お前の所為で俺様は怒られた!」
「ごめんね」
「畜生畜生畜生!!魂を持って行かなくてはいけないんだ、けど魂は別の世界で暮らしてしまうから、もう、もう、とりに、来られない」
「…うん」
畜生、と最後に一言だけ言って、死神は姿を消した。私はその後二度と死神を見ていない。夜中に見下ろす姿も見ていないし、夢の中でも出会えない。
死ぬつもりなんて、なかったのにな。ぼんやりと口にした言葉は、桜にも死神にも届かない。