しかしすぐ冷静になる。理解する。そして血が冷たくなる。体温が変わる。 「嫌だ」 声がした。誰の声だろう。ああ、自分ではないのはすごくよく分かる。耳の奥でぐわんぐわん鳴っているこれは、己の体内で反響してやってくる音ではない。 第一、自分の声帯はそんな風に震えてはいないのだ。 「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」 ああ、隣のこいつか。俺の戦友で親友で幼なじみで、ふとはじけたように走り出した黒い髪の少年。 戦場に不釣り合いな純粋すぎる感情。人を殺すことが恐ろしくて仕方なくて、前線にはずっと出られないから、遠くから狙撃手をやっていて、震える指で引いた引き金は敵陣地にいた迷彩服を吹き飛ばした。その日のそいつの顔は未だに覚えている、俺は知っていたのだ、わざとはずそうとしていたことも、外そうとしたはずなのに地面についた威力だけで人がそうなったことも、次は頭をきちんと狙えと全てを理解した上官が彼に耳打ちしていたことも。 心優しい少年なのだった、それを誰より分かっていたはずだった。 戦場に紛れ込んだ向日葵色の子猫にミルクを与えたりしていた、こんな狂った空間に投げ込まれてもまだそんな気持ちを保っている優しい人間だったのに、俺はその大切な彼を深く深く傷つけ続けている、先程のあの瞬間からより深く深く痛くぐさりとばしりとじわじわと。 「嫌だ、佐倉、嫌だ」 駆け寄って、抱きかかえる。周囲に人はいない。俺たちは仕掛けた地雷でひとつ爆発した反応がなかったからと偵察に来ただけだ。優勢なのか劣性なのかも知らされないまま日々傷付き汚れひとつずつ心を殺しながら人の命に手をかけることだけに専念していく、無機質な世界。 「何で、どうして、まさかおい、返事しろよしっかりしろよ」 「成宮」 名前を呼んでも、彼はこちらを向かない。 今ヤツの世界には、血と砂と、佐倉しかいないのだ。 「佐倉、佐倉、佐倉佐倉さくらさくらさくら」 「成宮」 そう、分かっているのに名前を呼んだ。幾度も幾度もくり返される名前、彼と俺との共通の友人の名前、今の今目の前で、俺に撃たれて倒れた女の名前。 成宮が俺を見ない。 「嫌だ、さくら」 気がおかしくなったように、ただ抱きかかえた彼女の名前を呼び続ける。彼女の目は閉じられていて長い睫毛がより印象的にうつる。陶磁のように白い肌は戦場の砂に汚され、その華奢な身体を包む迷彩服は真っ赤な血に染められていた。 まだ少年を抜けきらない、だけど少しずつ成長してきている成宮の声域で反芻される彼女の名前はそのうち音に変わっていくのだ。どうしようもなく。 俺の狙撃の腕は、前線での高評価もある、自負している。それは重みで痛みで苦しみの重量。戦争は全てを加速する。 「さくら」 「なる、みや」 「っさくら、」 苦しそうな佐倉の声に背を向けることも俺はしない。このままここに居れば地雷が爆発するのだということぐらい、爆発物処理という役割を敵の中で担っている彼女には分かっていた。すぐ横に転がっている高性能の金属探知器の操作画面には、すぐに近くに反応があったことが赤いランプで残っている。 「なるみや、私、よかった」 「嫌だ」 「しねてよかった、なるみやを殺さずにすんだ、いちのせの死をしらずにすんだ、よかった」 「嫌だ、そんなの嫌だ」 「なるみや、」 最後に会えたのも良かった、と最後まで言い切ることが出来ずに(それでも俺には彼女の言わんとしていることが分かったし、一字一句と違わずに成宮にも分かったはずだった)呼吸をやめた。 「嫌だ、嫌ださくら、さくら」 嘆きは大きくなる。もう分かっているからだ、必死に逃避し名を呼ぶ一方でもう二度と目を開けないということを分かっているからだ。苦しそうに一度開かれた彼女の目に安息がうつったのを知っているから、涙を流して抱きしめる。 生前の言葉を覚えているから抱きしめる。ふたりを殺さずに死ねたらいいな、と言っていたのを知っているから抱きしめる。ぼんやりと聞こえた、「いちのせ、ごめんねありがとう」という佐倉の声もその言葉の持つ意味も知っているから、強くその身体を抱きしめる。不条理の中で散っていく最愛の人を 抱きしめる抱きしめる抱きしめる。 成宮は俺を責めない。何で撃ったとも、言わない。 知っているから、言わない。 「戦争、って」 嗚咽の中でそうとだけ言った。 「俺、嫌いだ」 「うん」 「待ってるって、さくらにすら言ってもらえなかった」 「うん」 「死ぬわけにはいかないんだ、って、そう思いたかった」 「うん」 「俺、人殺すの怖いもん」 「うん」 「死ぬのも怖い」 「うん」 「俺さ」 「うん」 「佐倉のことすげー好きだった」 「…うん」 「一瀬、ごめんなありがとう」 俺はもう、頷くことも出来ない。 初めての罪 |