甘く軽やかな水の音、けれどそれは水ではなく、共通していることは液体というだけで、実際はもっとシュールで美麗なものだ。 まず美しい色を持っている。人間が作り出すことの出来る唯一の極彩色、夢の奥の毒々しいまでに愛らしい花のような赤。 それに心地よい温度もある。触れるとまだそれが分かる。次第に冷めていってしまう諸刃のもの、逃がさないように僕は触れる。 これだけなら何より愛しいものであるのに、変に気に障るのはともなっているにおいだった。このにおいを好む変質的な輩もいるが、僕はそれに当てはまらない。この、夏の漁場のような生臭さを好む連中の心境が分からない。 この白い部屋に溢れる愛しい液体。ここは研究室だ、持ち主は僕ではない。ちなみに持ち主も僕と同様にこのにおいを好まない者なので、あとで怒られも気もする。そもそも彼は耽美主義で、世界で最も美しい色は純白だと信じ、世界で最も綺麗なものは己の研究の行く末だと思っている。いつだったか、彼が被験体にある薬を飲ませ姿を見たことがあるのだけれど、彼曰くそれはとても美しいものに生まれ変わるまでの過程なのだということだったけれど、正直気分が悪くて仕方なかった。夕飯の牛筋の鍋を途中でやめてしまったぐらいのものだった。被験体はからだの中のあらゆるものを吐き出しそれらは全て白くなり、彼らの体の中のように空白となり、彼らの体の色はどんどん抜けていった。ただその実験で投与された薬はまだまだ開発途中のものだったらしく、効果は完璧ではなかった。彼はそれを酷く恨んだ。最後の被験体の右耳に血が残り、目玉に血走った血管の一本が残ってしまったのである。さっきも言ったように彼の好むのは完全なる美、白なので、その実験結果に絶望し、二週間ほどこの研究室に篭もって出てこなかった。二週間目のある日彼の助手がいい加減に出てこないともうここをやめると言ったらふと出てきて、ずっと篭もって作っていたのだという目玉まで真っ白な子猫を手渡していた。みいと鈴の鳴るような音で鳴く子猫に頬擦りをする彼女を眺めながら、ヤツの目が温かく細まるのを見た。彼が愛する完全美の世界のパーツからは大きくはずれてそこに存在する彼女が消えたのを理由に、彼はもう一ヶ月ほどここに帰って来ない。遊びに来た僕に留守を適当に頼むと言って白衣を脱ぎ捨てて走り去っていった彼の目の色は燃えるような炎の色で、僕はそれが嫌いではなかった。それでも僕と彼は似て非なるものだ。 とにかく、だ。助手を追いかけて出ていった主を待つそぶりもないこの研究室で、僕は骨の折れる音を聞いた。耳障りな音。べりごきん。ごきばきん。べきん、べきん。べがん、ごん。ぼり。 何とも不快な音がやんで、彼女は僕を見た。いなくなった研究者の飼っていた生き物は全て死んだ、彼女の右腕一本で、全ての骨を折られて。 骨というのは実際は白くない、だから肉片を瞬時に腐敗と消滅させるだけの薬では美しくなんてなれないのだというのが彼の持論だった。 「そうか、骨は白くないんですか」 「そう、実際は色んな繊維とかこびりついてて、きったねー色してる。お前チキン好きだろ、食い終わったあとのチキンの骨、白くねえじゃん?魚の骨だって同じだろ、オレそういうのは嫌だ」 「じゃあ骨まで漂白出来るような薬を作ればいいじゃないですか」 「汚いものを綺麗にするのはいいんだけどさ、骨だけになっちまったらつまんねえじゃん、もっと体があって白くて綺麗な姿がいい、それが世界」 「死んだ生き物は汚いですか」 「うん、汚い。そういうのの処理は全部、楽園の連中がやればいいんだ。オレはそんなの知らない」 楽園は研究機関だ。世界中に根を張る。そして彼はその中でもトップクラスの能力を持つ研究者だ。使い方が楽園と政府のためではないが故、そこまでの役職についていないだけ。 しかし政府の裏で糸を引く暗部の富豪の一人が彼の研究を大層気に入ったそうで、その人間の持つ裏の地位が随分なものだったという理由から、彼は政府と国家に守られた研究者として、ここで美しい世界の研究を続けている。 「けれど貴方の趣旨と反する生き物じゃないですか、富豪なんて。よくそんな所から融資を受けて研究してますね」 「会わなければ気にならねえしさ、オレはここで研究続けていられればいいだけ、別に趣味の悪い動物柄のパンツはいてびかびか光ったきしょい家に住んでる奴らの存在なんて、放っておく」 「彼女と一緒に、ですか」 「一緒に、ね、飯食わないとオレも死ぬしね。」 「貴方が別の人間を側に置いておくなんてにわかには信じがたい事実ですね、僕が紹介してあげた助手、貴方がぶち切れて何人薬漬けにしたか分かりませんよ、お陰で彼女たちは今はホルマリンにすらつけてもらえない真っ白です」 「あははー、…いいんだあいつだけは、白くなくても」 その彼女の右腕は義手だと聞いていたが嘘だった。生身の腕だ。いや、ある意味義手か。彼女の右腕は鉄などではない、人口の義手ではない、しかし人間の腕でもない。吐き気がするほどに美しい赤の腕。筋肉のむき出しになった腕。華奢。 「ユウカ」 「はい?」 「お前は私の名前を知らないよね、ユウカ」 「そうですね、僕は貴方の名前を知らない、貴方の出身地も血液型も誕生日も好きな本も知りません、知っているのは、貴方がツキの助手で、おでんを作るのが上手くて、人参が嫌いで、白衣も嫌いで、左手の小指の爪だけが赤く長くて、右手が凶器で、今たくさんの生き物の骨を折ったということぐらいです」 「そう、何も知らないんだねユウカ」 「そうです僕は何も知りません、貴方を追いかけて出ていったはずのツキが帰って来ない理由も、貴方が研究室を壊そうとしている理由も、貴方が泣いている理由も、何ひとつ知りません」 「ならば全部教えてあげるよ、ユウカ、私は悲しいから泣いているよ、骨が白くないから」 「ツキと同じことを言う」 「ツキが私に教えたから、あいつは白いものばかり美しいと世界だと言って愛するくせに、私を愛しているなんて言いやがったの、私はそれが嬉しくなってしまったの、だけど楽園は彼を手放せない、死に方も分からない私の右腕は世界を壊すしか出来ない、私は他に生きる場所がないの、鬱蒼と汚い森の奥、私の生まれた場所は世にも美しい極楽鳥の足の上」 「…貴方」 「そうなのユウカ、お前と一緒、私は楽園のゴミなの。けどお前と違って赤いあの色を愛せないから、森から飛び出してきた哀れな失敗作なの、ねえお前までどうして泣くの」 「悲しいからですよ、僕の妹」 「気持ちの悪い言い方をするね、じきにここに楽園の人間がたくさんくる、大した力もないくせに火薬のにおいだけぷんぷんさせて軍の人間もやって来るよ、ツキを好きだと思ってしまった私、全部から離れてしまいたかった、この奇形の右腕からも。極楽鳥の呪いから解き放たれたくてあの森の宝石を奪いにいったよ、ツキは私を追いかけて来たの、そうして、楽園の連中がツキを連れて行った」 「何のために」 「察してよ鈍感なユウカ。殺すためだよ、私とツキを殺すため、あの人間の地位が恐ろしくなって白くなる薬を使おうとしたの、そうしたらみんな白くなってしまったから躍起になっている。麓の街はもう大混乱だ、みんな白くなって死んでいく。気持ち悪い」 彼女は簡単に気持ち悪いと言った。愛する人間の研究の白を美しいと思わない、その彼女は美しい。 「楽園は政府は国家は軍は何をしているんだと裏が怒り出したの、ツキの研究を晒して、私とツキを公開処刑して、人の心の鬱憤をこちらに向けさせたいんだよ、そうして白い世界になっていくのを止めたいみたいだ」 「そんなことが出来るのは」 「ツキだけだね、だから今ツキは捕まっている。そうしてそのうちここに来る、軍だ、火薬のにおいを携えて無能な軍人がやって来るよ、そうしたら、私の右腕はどうなるかな、まだ私を守ってくれるだろうか」 「貴方は」 「ユウカ、お前が赤い血を好むのを知っているよ、私は。恍惚の目をしていたから、知っているよ、ユウカ。だから、ここから去るの、お前の好きな血の色なんか見せてやんない、軍人のものでもみせてやんない。私の右腕が全部吸い取ってやるから」 「貴方は」 「私は血も白も好きじゃないんだよユウカ、ありがとう兄さん、最後に私を妹と呼んでくれた、少なくとも不快な気持ちにはならなかったよ。私は今からたくさんの血を見て、ツキを助けて、死にに行く」 「意味は」 「ツキがこれ以上極楽鳥に呪われて私を愛していく姿をみたくないよ」 「どうして」 「きっと愛しているからだね」 僕はこのにおいが嫌いだった。血のにおい、生臭い、水音。 火薬のにおいで朧気になるならいいだろう、もう少しここで、呪われた妹と白く愛する友人のため、赤を増やしていくことぐらい怖くもない。僕らなら世界をとれるだろう。 |